(※写真は amiga -メキシコに住む日本人のための生活情報メディア-さんよりお借りしました。)

2018年2月に壮行試合のあとMEXICOへ旅立って早くも10ヶ月が経とうとしています。
KAWATO SAN こと 川人拓来選手ですが、MEXICOを紹介するメディアで独占インタビューを受けていたようですね。

今回はその記事を読んでみた感想を書きます。
最後に記事へのリンクを貼っておきますので、興味を持った方はじっくりと読んでみてください。

MEXICO 初戦で感じた戸惑い

川人拓来選手はMEXICO遠征の2日後に初戦を戦いました。
インタビューでこのときの事を短く振り返っていました。
戸惑っていた姿を忘れたかったのかな?(笑

MEXICOのプロレススタイル:ルチャ・リブレは間のとり方が独特なので、まずはそこで戸惑ってしまったようです。
しかも言葉の壁まであるわけですから、そりゃオロオロしてしまいますよね(笑

さらにはMEXICOの標高の高さ(2,300m:富士山の5合目と同じ!)も大きな敵になったと語っていました。
新日本プロレスの選手ですから心肺機能はめちゃめちゃ鍛えられているはずなのに、それでも辛かったわけですから相当なものですよね。

この様子は 新日本プロレスワールド 2018年2月9日 CMLL アレナ・メヒコ 放送で流されました。
まだアーカイブが残ってるので(2018/12/18現在)見てあげてください。

やはりあった食生活の悩み

ROPPONGI 3KのSHO選手 YOH選手はまったく問題なかったようですが、川人拓来選手はかなり苦しんだようですね。

海外にいったら気をつけるものとして「生水」がありますが、どうやら食べ物も合わなかったようでその辛さを語っていました。

一番つらかったのは体重が減ってしまうことだったようです。
もともと体重がある方ではないので余計に気になっていたようです。
余計なところで痛い出費だったみたいですね。

結局、MEXICOの日本食で体重をキープしてたって話ですけど、日本食としても材料とか水とかは対して変わらないはずですけど、どうなんでしょうね?
辛い系の食事が苦手なんでしょうか?

川人少年のプロレス道

プロレスとの出会いや新日本プロレスへ入門してからの思い出を語ってくれていましたね。
きっかけは今で言う”プ女子”であった母親の影響だったというのも初めて知りました。

テレビで見たはじめてのプロレスで自分の進む道を決めて、そこからはまっしぐらに進むところは、なんとも真っ直ぐな感じで好感持てますね。
そんな中、入門テストが「楽勝でした」ってのはやっぱりスゴイことだと思うんだよな。

私も受けたからわかりますけど、想像以上にきついっすよ。
もちろん緊張によるスタミナの消費もあるんでしょうけどね。
そういうのがないってのは川人拓来選手の神経の図太い部分なのかな?

そして中邑真輔選手にあこがれて総合格闘技と空手を学び、新日本プロレスに入門してからはひとり新弟子時代を経てデビュー、そして現在があるという感じです。

以前から川人拓来選手は「生涯ジュニア」を宣言していて、ジュニア好きな私としては応援したくなってしまう訳なんですけど、その理由も本人の口から話してくれていました。

うん、確かにあんなこと言われたら答えない訳にはいかないですもんね。

まとめ

初の海外生活、食も言葉も標高もそしてプロレスの技術や空気感も戸惑うことばかりのなか、その図太い神経で堂々としたルチャを見せている川人拓来選手。

ノータッチ・トペ・コンヒーロは見るたびに精度があがってきています。
昔から新日本プロレスを支えてきたジュニアの次世代を期待させる仕上がり具合です。
インタビューでも語っていたジュニアへの想い、そして未来を期待させてくれますね。

MEXICO初戦から黒のショートタイツから赤いパンタロンスタイルへの変貌。
いまは髪型も色も変わっていってますが、実は紹介写真はヤングライオンのままというのがね。(笑

OKUMURA選手にお願いすれば撮影しなおしてもらえるんじゃないかとおもんだけどダメなのかな?(^_^;)

あ、そうそうリングネーム「KAWATO SAN」になった理由と向こうでの呼ばれ方も面白かったな(笑
全文を載せるわけには行かないので、ぜひ下のリンクから読みにいってくださいね。

それでは!

引用:本場メキシコで戦う日本人プロレスラーの未来を変える挑戦 川人拓来
(amiga -メキシコに住む日本人のための生活情報メディア- より)

https://www.facebook.com/michitsugu/posts/1962059337217325?comment_id=1962068083883117&reply_comment_id=1962209880535604&notif_id=1545119453887164&notif_t=feed_comment

投稿者: 矢後 至譜

1969年生まれ 大分県出身 小学校のころに見たタイガーマスクvsダイナマイト・キッド戦に衝撃をうけプロレスラーを目指すことを決意、中学から高校まで柔道部で主将をつとめあげて社会にでるとき、周囲の反対を押し切り、新日本プロレス学校へ入学、一度挫折をあじわい故郷へ帰るが、熱いプロレスラーへの夢を抑えきれずに再び上京、アニマル浜口ジムの門を叩き本格的にプロレスラーへの道を歩む。 しかし、25歳で最後のチャンスにかけていた時、トラブルに巻き込まれ頬に7針を縫うケガを負いその後に控えていた新日本プロレスの入門テストを準備が不十分なまま受けることになり、あえなく不合格になる。 「25歳までにプロレスラーになれなければ、あきらめる」と両親と約束をしていたため、やむなくプロレスラーへの夢をあきらめる 現在は、再びサラリーマンをやりながら、熱くて、ワクワクさせてくれるプロレスを、その熱量全開で伝えることで、周りの人の人生も、もっといいものにしてくれるものであることを発信中!

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